新たな”産業のダブルバインド”

 東京では、四回目の緊急事態宣言が発令され、新規感染者数の増加が加速する中、万難を排して、いよいよオリンピックの開催です。同じような感情になっている人も多いかと思いますが、正直なところ、個人的にはオリンピック自体に特別な実感はありませんし、また、コロナ感染に対する特別な危機感も抱かなくなりました。私には心理学の専門知識はありませんが、人間は2つ以上の矛盾したメッセージを繰り返し受け取ると、強いストレスを受け、どうしたらよいか判断ができず、精神的に膠着した状態に陥ってしまう”ダブルバインド”という状態があるようです[1]。ダブルバインドは、元々は精神医学者のグレゴリー・ベイトソン氏が、統合失調症の調査をしていく中で発見されたようで、現代社会では、教育、職場、家庭などの様々な場面で、その弊害や逆にその効果を応用したタクティクスが知られています。実際、筑波大学の原田隆之教授は、コロナ禍において、人々の行動変容が難しい理由のひとつとして、このダブルバインドを挙げています[2]。確かに、心理学的視点では、これまで取られてきたー規制と緩和を繰り返すー”Hammer and Dance”政策においては、ダブルバインドを如何に克服するかが重要であると考えられます。

 もうひとつ、私としては避けて通れない最近の話題として、各国の半導体戦略に纏わる政策と国内での動きがあります。もう、メディア的な狂騒曲は一巡したようですので、そのヒストリーは述べませんが、要は昨今の半導体不足問題(これも、もう少し丁寧な分析/議論が必要であると思います...)と米中のハイテク貿易や安全保証問題を背景に、バイデン政権が自国の半導体供給体制へのテコ入れ政策を打ち上げたのを皮切りに、主要国及び経済圏もこれに追随し、自国の半導体産業への投資や連携戦略を明らかにしており、国内でもその動きが顕在化しているということかと思います。一部には、日本半導体産業の復活構想への動きとのトーンの報道もありますが、長年、半導体業界に従事してきた方々にとっては、過去の国内半導体産業の方向性を顧み、こうした動きにより、ある種のダブルバインドの感覚の人もおられるのではないでしょうか? 過去20年では、日本の半導体関連企業は、変貌する産業・市場構造に対応すべく、支配戦略(ゲーム論的)を模索してきました。”選択と集中”という言葉も懐かしいですが、私もこの間、掲題に対して政府系金融機関や企業再生機関とクライアントミーティングを重ねた記憶があります。もし、今までの企業活動の結果ー>”産業の凋落”のメッセージが強く映れば、今後の政策[3]に向けた企業行動には心理的バリアが伴うとも考えられます。

 また、類似の視点で半導体産業の動きを考えてみると、現状は、さらに大きな産業のダブルバインド”[注]に直面しつつあるように見えます。そもそも、半導体サプライチェーンは他の産業には類がない複雑性を有しており、その主な特徴は以下のように整理されます。

●プロダクトは機能・仕様ともに多種多様である一方、プロダクトサイクル(先端品)が短い
●さらに、製造工程は数千の多様なプロセスが必要であり、リードタイムが長い(10~15weeks)
●需要変動が大きく、経済、自然災害等、様々な外生要因に市場は大きく影響される
●コスト、製品性能、サービス等の市場競争が激しく、歩留まりにリンクした指数的な価格下落が繰り返される
●技術革新が早く、タイムリーな経済スケーリングが要求されるため、研究開発費とともに先端プロダクトに必要な設備投資は増大し($10B~)、リスクが高い
●生産設備の構築は、設計、装置、材料など多岐に渡る産業と企業が連携しており、そのプロセスは長期に渡る(0.5~3years)

 これらの条件は、実現において、互いに相反する拘束の集まりと捉えることができ、上述の類推に基づけば”半導体産業のダブルバインド”と言えるかもしれません。業界が意図して動いたか否かはわかりませんが、結局、ここ20年間で、市場競争を通じ、ダブルバインドを解消することを模索した結果として、設計、製造(前工程,後工程)、流通の水平分業モデルと各国の産業の強みを最適化したグローバル分業に基づく、産業サプライチェーンが構築されたと解釈できます。今回、主要国の半導体サプライチェーンの再構築への政策がもたらす新たなバインドの影響が注目されますが、4月にリリースされたBoston Consulting Group(BCG)とSemiconductor Industry Association(SIA)による優れた分析レポート[4]のシナリオ予測では、その実現性は別として、完全に”自給自足”が地域化されたサプライチェーンが遂行された場合には、非常に大きな生産コストの増大を招き、35~65%の半導体価格の増加につながると指摘しています。

 一方、これまでは、ハイテク貿易や安全保証問題の視点からの半導体政策が話題を巻き起こしましたが、”そのうち、振り子は反対方向へも触れるだろう”と思っていたところ、最近では、やはり、産業界からは、様々な意見がでてきたようです。Intel CEOのPat Gelsinger氏は、米国の政治専門サイトのPOLITICOの寄稿文[5]にて、TSMCが米国で建設を計画する半導体新工場への補助金を巡り、異議を唱えており、また、Bloombergによれば、動向の中心となるTSMC創業者の張忠謀氏は、”世界各国が自国内で半導体サプライチェーンを再構築する動きについて、コストが膨らみ、自給自足の達成もおぼつかなくなる”と警鐘ならしたと報告しています[6]。このように、新たな動きも顕在化しつつあり、今後もさらなる動きが予想されることから、半導体サプライチェーンはどのような方向へ向かうのかは、現状、定かではありません。かつて、EurasiaGroupのIan Bremmer氏は、顕在化する反グローバリズムを"抗議のための支持”の流布と指摘しましたが[7]、今後3~5年では、半導体業界が、”対抗のための投資”の流布を背景とする”新たな産業のダブルバインド”に、どう向き合うのかが注目されます。

 

[注]:本来のダブルバインドとは異なり、心理学的効果は意味しませんが、”複数の矛盾した拘束条件により、産業自体が混迷する危惧のある状態”の意で用いています

 

<参考サイト>

[1] 手島将彦:社会に蔓延する、人々の思考と感情を奪いかねないダブルバインド(2021年4月15日), https://rollingstonejapan.com/articles/detail/33627
[2] 原田隆之: 人々はなぜ行動変容できないか・・・再度の緊急事態宣言の前に考えるべきこと(2020年1月5日), https://news.yahoo.co.jp/byline/haradatakayuki/20210105-00216054/
[3] 経済産業省:「半導体・デジタル産業戦略」を取りまとめました(2021年6月4日)
[4]SIA/BCG:"STRENGTHING THE GLOBAL SEMICONDUCTOR SUPPLY CHAIN IN AN UNCERTAIN ERA", April 2021, https://www.semiconductors.org/
[5] PAT GELSINGER: "More than manufacturing: Investments in chip production must support U.S. priorities, POLITICO, June24,2021
https://www.politico.com/sponsor-content/2021/06/24/more-than-manufacturing
-investments-in-chip-production-must-support-us-priorities?cid=202106hpms
[6] Debbt Wu: "TSMC Founder Says Breaking Up Chip Supply Chain Will Be Costly", Blomberg, July 21, 2021
https://www.bloomberg.com/news/articles/2021-07-16/tsmc-founder-says-breaking
-up-chip-supply-chain-will-be-costly
[7] イワン・ブレマー:”欧米で始まった反グローバリズム 国家の分断と混乱は世界に広がる”、「世界の危機 分断と反逆」、週刊エコノミスト/ebook、2016年11月4日、毎日新聞出版

 

2021年07月20日